SHINGAKUKAI 70th
Interview

子どもたちみんなが、夢中になれるものと出会ってほしい。私たちはいつも、そう願っています。信学会ではこのサイトを通じて、夢中で何かを続けてきた人たちから、見つけ方や向き合い方などをうかがい、お伝えしていきます。

vol.1

小平奈緒さん


やり遂げると、
新しい自分が生まれる

インタビュー記事第1弾は、元スピードスケート選手で平昌五輪金メダリストの小平奈緒さん。幼少期からスケートにのめり込み、世界のトップとして活躍を続けた小平さんに、競技に没頭できた理由や、心掛けてきたことなどをお聞きしました。(以下、敬称略)

想像するための「仕掛け」を用意してくれた父親

― 最初にスケート靴を履いたエピソードがおもしろいとお聞きしたことがあります。

小平:私は三姉妹の一番下なんですけど、両親が姉たちをスケートクラブに連れて行くのに3歳の私を家に置いていけないということで、スケート靴を履かされてリンクにポイって置いとかれたんです。氷の上なら遠くには行ってしまうことはないだろうと(笑)。でも、気づくと「あれ?もう1周してきたの?」という感じで、何周も滑っていたそうです。

― どうしてスケートに夢中になれたんだと思いますか?

小平:姉がスケートをしていたからとか、地元にリンクがあったから、という環境もありますが、父がスケートに関して無知で、教えられることがなかったのが大きかったかもしれません。

― 教えられることがない、ということがプラスにはたらいたんですか?

小平:はい。当時、スケートの教科書のようなものもありませんでしたから、「本物を見に行こう!」ということで、近くで大きな大会があったりすると一緒に見に行ってくれて、速い選手がどうしているかを観察して、次にリンクに行ったときにやってみる、「学びの循環」のような繰り返しだったんです。

― お父さんも一緒に未知の世界を進んで行ったんですね。

小平:もし父が元スケート選手で、「これはこういうものだ」という教え方をする人だったら、自分の中に好奇心が生まれなかったんじゃないか、と思います。伝え聞いた話ではなくて、本物をしっかり観察して、考えて、やってみる。父とは、そんな試行錯誤を続けていました。

― お父さんはどんな方ですか?

小平:父は実験させるのが好きで、想像させる「仕掛け」みたいなものをよく用意してくれました。たとえばよく憶えているのが、子どもの頃に富士山を登ったときなんですけど、登る前に「頂上ではポテトチップスの袋が膨らんでいるか、萎んでいるか、どっちだと思う?」と質問されたんですけど、答えは言ってくれない。頂上に行ってから確かめるんです。ただ、そのときは頂上でバッグから袋を取り出そうとした父が本当に残念そうな顔をしていました。気圧が低すぎて、破裂しちゃっていたんですね(笑)。でも、そのときも「実はこうなるはずだったのが…」と、きちんと振り返りをしてくれる、そんな父です。

― 問いやヒントを与えて自分で考えさせる、というスタンスは、後に師事する信州大学の結城匡啓教授に通じるものがありますか?

小平:そうですね。結城先生も、学びのきっかけになるようなものを散りばめてくれて、あたかも私自身が気づいたかのように仕向けてくれる。父も結城先生もそこが絶妙だったと思います。まんまと「知るを楽しむ」という世界に引きずり込まれました。

「結果より友達」がもたらしたもの

― 他に、夢中になれた要因はありますか?ライバルの存在とか。

小平:ライバルというか、スケートでお互いを高めあう仲間ができたというのは大きかったです。最初は学校以外の地域の友達ができて、それが県内、全国、世界に広がっていったのが楽しかったですね。

― 昔から人との繋がりを広げられる人だったんですか?

小平:いえ、人見知りでした。小さい頃は両親や姉の背中にすぐ隠れてしまうような、人と話すのが苦手な子でした。

― ちょっと意外です。

小平:そんな私が中学1年で全国大会に出るときに、父が「友達をたくさんつくってこい」って言ったんです。「結果を出せ」というようなことは全然言わないのに。その当時は「結果より、友達か…」とちょっと尻込みしました。そっちのほうが、自分にはハードルが高かったので(笑)。

― でも、同じことを頑張っている人となら話題も見つけやすいですよね。

小平:そうですね。ちょっと怖かったんですけど、勇気を出して「どんな練習してるんですか?」とか色々と聞いてみました。そうしたら、自分と同じ中学生が、自分と同じように頑張っていることを知ることができて、仲間ができた気持ちになりました。スケートって、夏場は特に氷の上に乗れないし苦しいトレーニングも多いんですけど、「今ごろきっとあの子も歯を食いしばって頑張っている」と思うと自分も頑張ることができましたね。

― お父さんはそういうことも想像して言ったんですかね?

小平:どうなんでしょうね(笑)。でも実際、仲間は自分を高めてくれました。夢中になるのに必要なものだと思います。

人生で一番の緊張は大学受験

― 小平さんは中学1年のとき信学会の塾に通っていたそうですが、受験までまだ時間があるタイミングだったのにどうしてですか?

小平:拍子抜けしてしまうかもしれないんですけど、周りの友達が行き始めて、「塾ってどんな世界なんだろう」と興味を持ったんでしょうね。それで通い始めたんです。

― 行ってみて、どうでしたか?

小平:塾に行くと、やっぱり学校のテストの成績がいいんですよね(笑)。

― よかった(笑)。

小平:あと、授業が楽しかったです。教科書にはない、学び方のコツみたいなものを先生たちは知っていて、それがおもしろかったですね。違う学校の友達ができたこともよかったです。

― 通ったのが1年間だけだったのはどうしてだったんですか?

小平:たまたま地元の茅野市で19歳以下の「全日本ジュニア」という大会があって、出たら優勝しちゃったんです。それから本格的に世界を見すえた練習をしたいと思ったので。勉強も好きだったんですけどね。というより、塾に行くことが好きだったのかもしれないです。友達に会ったり、先生に会ったり。

― 嫌になったんじゃなくてよかったです(笑)。その中学生のころのお話ですが、高校受験を前にしながら一段飛ばしで「信州大学に行きたい」と思い始めたと聞きました。

小平:テレビで信州大学の結城先生がスケートのサイエンスについて解説している番組があったんです。それで信州大学に行きたいなと思いました。
それで、中学3年生の進路希望で志望校の欄に「信州大学」って書いちゃって。「まずは高校に行きましょう」と言われました(笑)。

― じゃあ大学受験のときは、「他の選択肢は目に入らない」という感じだったんですか?

小平:いえ、そんなことはないんです。ハード面で環境に恵まれている私立の大学だとか、実業団からもお誘いはいただいていたので、心が揺れ動いたことはありました。でも、速くなる近道よりも、信州大学で学ぶほうが、世界が広がると思いました。「知りたい」という好奇心が勝ったんですね。
それと、学校の先生になりたいという夢があって。それは今、置いてあるんですけど。スケートでオリンピック選手になることと先生になること、2つの夢を追いかけられるのが信州大学だと思いました。

― 当時、信州大学のスケート部は強かったんですか?

小平:国立大学は私立のように幅広く選手を集めることができないので、最強軍団という感じではなかったんですけど、結城先生のもとでサイエンスを知って、高校でそこまで成績を出してなかった人が「伸びる」というか「化ける」ことが多い。それが信大の特徴かなと思います。

― 大学受験は「人生で一番緊張した」そうですね。オリンピックのような大きなレースより、ですか?

小平:スケートは自分の実力がそのまま結果になるんですけど、受験は人の評価が入りますよね。自分ではコントロールできない部分があるので、それが心配だったんでしょうね。
それと私が受ける前の年に、スケート関係で受けた人が全員落ちていたので。その中にはインターハイで表彰台に登った人もいたので、スケートの結果だけで入れる大学ではない、と思っていたからというのもありますね。

Profile

小平奈緒さん
相澤病院所属、信州大学特任教授

1986年生まれ、長野県茅野市出身。信州大学教育学部卒。3歳からスケートを始め、国内外の大会で37連勝を記録するなど世界の第一線で活躍を続けた。2018年平昌五輪スピードスケート女子500メートルで金メダル、同1000メートルで銀メダルを獲得。2022年で現役を引退。現在は母校・信州大学でキャリア形成や健康科学に関する授業を担当するほか、講演活動などで多忙な日々を送る。